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「木蓮」3月16日(土)

2013年3月16日

今日出張からの帰り道、家の近所の上宿観音の境内にある木蓮が満開でした。今年は木蓮が満開になるのがチョット早いように思います。例年は3月末頃だったと記憶しているのですが。22年前の3月末に大阪の箕面市にある実家から、前職の転勤で秦野市に転居しました。転居した借家の近くの木蓮が満開なのを見て、大阪の実家に残してきた木蓮も今頃満開なんだろうなと寂しく思ていた記憶があります。関西人から関東人になってもう22年が経ちました。大阪弁の抜けない変な関東人ですが。人は何処に飲む水があるのか解らないものですね。この先も・・・・。木蓮を見てチョットしんみりしてしまいました。出張疲れからでしょうか?

「タイでのお仕事その3」3月7日(木)

2013年3月7日

お仕事の話です。今回の旅行はお遊びでは無いのです。まじめなビジネスですからね。前出のタイの商社、T社はどんな会社なのか見に来たのですから。そのT社本社ビルの写真です。これ全部?そうなんです。間借りじゃなくて、自社ビルで、T社が全部使っているんだそうです。本社だけで、300人の従業員と聞いてびっくり。関連会社を含めると何人いるのか解らないだって。こんな大きな会社があんな小さなレナテックと総代理店契約を?ビックリしましたね。まあ、でも営業力を見なければと、T社の営業と一緒に大学や製薬会社を回りました。

この方々が営業です。クラブで接待を受けた後の写真では無いのです! タイの会社では女性も男性と同じように活躍しているんだそうです。素晴らしいことですね。可愛い営業ウーマンと同行する楽しい日々を送りました。でも、仕事の方も結構人脈を持っていますね。合格!可愛いからではありませんよ、まじめに。でも、写真では鼻の下長いかな・・・・。

T社の正面玄関にはガードマンが2人も立っています。レナテックのウサギの門番とは大違いですね。

で、最後は社長室で社長のお嬢さんの社長秘書も交えて、よろしくと記念撮影をして来ましたよ。なんだかレナテックの貧乏社長と違ってとてもお金持ちのようでした。タイの富豪てとこでしょうか。でも、「人はお金を持って死ねないのですよ。持って行けるのは思い出だけ!」これって、貧乏人のひがみですかね。ちなみにこの社長さんも敬虔な仏教徒で、社長室の横にお寺の本堂のような仏像部屋がありました。

 

 

「タイでお仕事その2」3月4日(月)

2013年3月4日

バンコクの繁華街へ行きました。大通りの写真です。15年前に来たときはバイクの洪水で、空気は排気ガスで汚れていてマスクをしないと歩けないくらいでした。でも、いまは、ほとんどが乗用車です。3輪車タクシーのツクツクは、今でも健在でしたが。空気もとても綺麗に感じました。ただ、東南アジア1の渋滞には閉口しましたが。

3月は、タイの夏だそうです。学校も3月から5月までは、夏休みなんだそうです。バンコクでは冷房バスが走っています。このバスは窓が開きません。でも、料金が少し高いそうです。で、庶民は、冷房のない窓あきのバスに乗ります。

同じ路線を両方のバスが走るなんて、日本では信じられませんね。でも、15年前に比べると格段に生活レベルが上がっていることを実感できました。タイ経済の逞しさを感じましたよ。これからは、タイだ!

「タイでお仕事その1」3月2日(土)

2013年3月2日

またまた、東南アジアに来てしまいました。2月にインドネシアに行ったばかりですが。3月はタイのバンコクに来てしまいました。遊び?いえお仕事ですよ。15年ほど前にバンコクに遊びで来たことがあります。15年経つとタイもどの程度変わっているのか見るのが楽しみです。インドネシアから戻ったら、タイの会社の社長さんがレナテックを突然訪問されました。何処で調べたのでしょうか。光触媒脱臭装置のタイにおける総代理店をさせて欲しいとのことです。ビックリしましたが、でも、実際にその会社を見せてもらわなければね。とひとりでタイに出張ということになりました。

タイに着いたらもちろんタイ式マッサージですよね。タイに来る前に紹介してもらった、チョット高級なタイ式マッサージ店へ行きました。もちろん、おばさん・おばあさん?の出てくる健全なタイ式マッサージのお店ですよ。二時間で1500円でした、安いですね。長旅の疲れもとれて明日からお仕事です。

マッサージ店を出てホテルに戻ろうとしたら、面白い物を発見。これ電話線ですよ。どうやって工事したのかな?どうやってメンテナンスするんでしょうね。やっぱりタイですね。

 

「2月の誕生会」2月22日(金)

2013年2月22日

2月の誕生会を行いました。2月は、今年も開発研究所長のI君一人です。まだ、2月生まれの社員が入社していないということですね。で、小さなケーキでお祝いをしました。また、今年一つ歳をとったことに。あー1年てあっという間ですね。

「インドネシア旅行その5ボルネオ」2月13日(水)

2013年2月13日

いよいよ今日は、インドネシア旅行の本当の目的地に行きました。父はポンチャナック事件に巻き込まれて、終戦の年、1945年から1年間をこの地でオランダが管理する刑務所に収監され筆舌に尽くしがたい1年間を過ごしたのです。日本に帰国して私が生まれました。私が中学生の時に父は亡くなったのですが、インドネシアでの事情を一度も語ることがありませんでした。ただ、オランダ兵に蹴られた腰が時々痛くなると言っていただけでした。

ポンチャナック事件の概要ですが、日本の敗戦色が濃厚になってきた終戦末期に、巻き返しを計るオランダのゲリラと華僑が組んで、武装蜂起し一気に日本軍を壊滅させるという計画がおこりました。12月8日にある祝賀会がインドネシア婦人会と日本人、軍人により執り行われる予定でしたが、この祝賀会で毒をもり、一気に武装蜂起するという計画だったそうです。この計画が明るみに出て、現地の憲兵隊が千人近い人々を逮捕し、処刑したという事件です。ポンチャナックから90kmほど離れた田舎町マドール地方で、その悲劇がおこりました。そのために現地ではマンドール事件というのです。その処刑をされた場所がそのまま墓地になっています。その墓地に、日本軍が現地の人々を処刑をするレリーフが記念碑として建っていました。そこにお参りをするというのが今回の旅の目的でした。

そのレリーフの中央に建っている碑の石版に写真の文字が書かれていました。「思い出にするだけではなく、あなたの闘争精神をすべての植民地支配への闘いに貫いて欲しい」と書かれているそうです。終戦後オランダ軍がポンティアナックに戻って来ましたが、この事件を戦犯として裁判を始めました。日本に帰っていた軍の関係者も連れ戻され、終戦で帰国しようとしていた民間人も軍人も連れ戻され裁判が始まりました。戦後のどさくさのいい加減な裁判だったようで、現地の人を集めて、この日本人は悪い人か、いい人かと尋ね、悪いと言われるとみな刑務所送りだったようです。オランダがインドネシア植民地統治を続けるために利用されたような裁判でした。その後日本軍の責任者数十名が銃殺刑に、父は1年間の禁固刑に服しました。多分マレー語の出来る父は、日本軍に尋問の通訳をさせられていたのではと想像しています。現地へ赴任した父は、現地の酋長や要人との親交も深く信頼関係を築いていたようです。そのことが逆に仇になったのかも知れません。

これで、死ぬまでに一度ポンティアナックを見てきたいという願いが叶いました。ポンティアナックからジャカルタ経由で成田にもどりました。父の冥福を祈りつつ。

「インドネシア旅行その4ボルネオ」2月12日(火)

2013年2月12日

バリ島でのゴルフ三昧をあとに、ジャカルタを経由して、カリマンタン島(旧ボルネオ島)のポンチャナックという町に立ち寄りました。この町は、西カリマンタン島でもっとも大きな都市です。また、赤道直下の町としても有名なんです。でも、日本人は、ほとんどこの町を知りません。日本を発つ前に、R銀行の知合で昔ジャカルタに赴任していたことのある方に情報提供をお願いしましたが、彼のジャカルタでの友達に聞いても行ったことが無いとの事でした。ネットで調べてもほとんど情報がありません。でも、そんな所になぜ行ったのか?と思うでしょ。実は死ぬまでに一度行ってみたかった場所なのです。理由は、私の死んだ父親が若い頃、M商事から海外駐在員でこの町に単身赴任していたんです。その期間が太平洋戦争まっただ中の1943年から1946年なのです。インドネシアからの物資を調達する目的で派遣されていましたが、終戦とともに引き上げることになりました。しかし、引き上げを目前にしてオランダ兵に拘束され、裁判にかけられたのです。罪状は、ポンチャナック事件に関与した罪です。このことは、父親が亡くなったあとで解った事なのです。父は、終戦後一年間インドネシアに抑留されていたとだけしか語りませんでした。詳しい事情は何も語らずに51歳で亡くなりました。偶然にも私が勤めていた前の会社Nマイクロの創業者Mさんがその事情を知っていたのです。戦時中、彼もインドネシアのボルネオ島に野村貿易から現地駐在として派遣されていた経験があったのです。「ポンチャナック事件」現地では「マンドール事件」というそうですが。この事件について記述したいと思いますが、チョット長くなったので、次回に続くにします。

カリマンタン島には、昔社会の教科書で習った広大なプランテーションが広がっていました。洗剤の原料となるパーム椰子の畑です。

赤道直下では、衛星放送用のパラボラアンテナが真上を向いています。変な感じ。

赤道直下を示すモニュメントです。

「インドネシア旅行その3バリ島」2月11日(月)

2013年2月12日

今日はバリ島最後の日です。そして最後のゴルフ三昧ということで、夕日のとっても綺麗で有名なタナロット寺院の近くにある「ニラワナバリゴルフ倶楽部」にやってきました。このゴルフ場はバリでもピカイチのゴルフ場です。でもサンセットプレイということで、午後3時にスタートするとチョット安いのです。私に付いてくれたキャディーさんのデウイちゃんは、とっても日本的な可愛い子でした。ゴルフもよく知っていて、クラブ選択と戦略はピカイチ。日本のキャディーさんでもなかなかここまでアドバイス出来る人は少ないです。と、可愛いからベタ褒め。で、暑いバリ島にもやっと慣れて、スコアーがまとまりだしました。でも、途中スコールで1時間中断、その結果途中日暮れで中断となりました。これがほんとのサンセットプレーですね。あーあ、いいスコアーだったのにとがっくりした顔をしていますが、デウイちゃんがまた来てねと言っているようです。本当のところは英語も日本語も全く通じませんから、パントマイムだけでしたが。

「インドネシア旅行その3バリ島」2月9日(土)

2013年2月9日

今日もゴルフです。8日と同じゴルフ場なのですが、キャディーさんのユニホームがオレンジになっていました。ここニュークタGCは、チョット高級です。観光客に人気があるので、高いのです。日本の高いゴルフ場とかわりません。でも、キャディーフィは、日本円で千円でした。この千円をチップとして彼女たちに渡します。まあ、人件費が安いのですね。

でも、ともかく暑い!あまり暑すぎて、熱射病になりそうです。真冬の日本から来た私は、頭がボーットして、今日もゴルフボールにクラブが当たらないのです。体が暑さに慣れる前に帰国してしまいそうです。

 

「インドネシア旅行その2バリ島」2月8日(金)夜

2013年2月8日

夕方もう一人のお友達K金属のSさんも関空からデンバサール空港に到着し合流しました。Mさんの私設現地旅行社ワヤンさんが車で迎えに行ってくれました。「ワヤン」という名前はバリ島に多い名前です。タクシーの運転手さんもホテルのフロントもみなワヤン。バリ島の町でワヤンと呼べばみな振り返ります。これ「うそ」です。でも、ベタベタの大阪人である友人のM氏は、彼のことを「ワイやん」と呼びます。「わいやん」て通天閣の下あたりにいそうな名前ですね。これも、関西人でないと解らないかな?

まあ、ともかく3人がそろったのでワイやんも含めて4人で乾杯しました。バリらしいレストランで!

 

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