ニッカ創業者竹鶴政孝についてお話します。10月からNHKの朝ドラで放送が始まります。「まっさん」という題名だそうです。政孝の奥さんは、彼がスコットランドにウイスキー製造技術を勉強にいったとき知り合って結婚をしたリタさんが、政孝と発音できずマッサン、マッサンと呼んでいたことからこの題名になったのです。広島の竹鶴酒造(今でもあるそうです)の三男として生まれ、お酒に興味をもって、阪大の前進大阪高等工業で醸造学を学びます。そのご、洋酒の老舗である摂津酒造に入社。ここで本格的ウイスキーを製造する計画があり、政孝は、スコットランドへ単身留学をします。苦労の末、ウイスキー作りのノウハウと美人の奥さんを手に入れて帰国をしたのです。ところが、折からの世界大恐慌でウイスキー工場建設計画は頓挫します。今度は、洋酒製造販売業者の壽屋(現在のサントリー)がウイスキー製造をに乗り出そうとします。そこで、社長の鳥居信冶郞が政孝をリクルートし山崎に蒸留所を建設するわけです。しかし、意見の合わないところもあり、サントリーを飛び出して、余市に自分の思い通りのウイスキーを作る計画をたてますが、問題は、資金です。その資金を出してくれたのが、妻のリタさんが英会話を教えていた生徒の夫、加賀証券社長の加賀正太郎という人です。加賀正太郎と加賀の友人の2人が株主となってスタートをしました。そして、苦労の末ウイスキーを製造販売する企業となったわけです。しかし、ここで、私見ですが、竹鶴政孝は確かに素晴らしい技術屋でしたが、経営者としては失格だと思います。後に、加賀正太郎は、昭和29年に不治の病に倒れた時、もう一人の株主とともに全株式をアサヒビールに売却をしてしまいます。それ以降アサヒビールの子会社になってしまったのです。
この写真は、竹鶴政孝が執務をした事務所です。こんな小さな事務所で一人頑張って居たのですね。
さて、優秀な経営者なら、創業時の株主を分散させ、将来の危機にそなえなければなりません。人の気持ちは変わります、株主も人ですから気持ちも状況も変わるのです。株主がまとまって、会社を売られないように、いろいろな人に出してもらうのが正解でしょう。幸い朝日ビールからはたった一人の役員しか送り込まれずに、自由にウイスキー作りができて、ニッカという名前が残ったのは幸いでした。このことによって、竹鶴政孝のウイスキー作りに専念した情熱に感動した気持ちは変わっていませんがね。本田技研の本田宗一郎に藤沢副社長がついていなければ同じ運命になっていたかも知れません。竹鶴政孝に私がついていれば、ニッカは違った道を歩んだのに! 一寸自信持ちすぎ!「はい、すみません」 <THE END>