今日は、お仕事で大阪の箕面市に行きました。国道沿いに「萱野三平邸跡」という看板が目につきました。打ち合わせの時間までに少し余裕があったので、行こう、行こうということで、少し歴史の勉強をしに道草を。
萱野三平は、13歳の時に播州赤穂の城主、浅野内匠頭の小姓として側近に仕えました。しかし、1701年有名な松の廊下での事件が起こります。浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった事は後の「忠臣蔵」というお話になり有名になりました。さて、萱野三平さんですが、その事件を地元赤穂に知らせるのに早かごで4日半という驚くべき短時間で江戸から赤穂まで旅をしたのでした。その時西国街道沿いの箕面の実家の前を通ると、実家では母親のお葬式が行われていました。かごの中から手を合わせて、赤穂へ急いだそうです。それだけのお話なら、そんなに有名にもなりませんよね。だって重要な勤務中にお葬式に出られないサラリーマンもいますから。
ところが、その後、赤穂浪士に加わろうとした三平さんを大嶋氏に仕えていた父親が、大嶋氏への迷惑を考え息子を家に留め置きました。現代風にいうなら、会社の仲間が大事か、会社を辞めて家のことを優先すべきか悩んだのでした。そうして最後は、1702年3月主君の命日に大石内蔵助への遺書をしたため自殺をします。28歳の若さでした、それは、討ち入りの10ヶ月前の事でした。このことが赤穂浪士の間に団結が生まれる切っ掛けになったそうです。そうして、見事に討ち入りを果たし全員が切腹と成るのでした。
「晴れゆくや日頃心の花曇り」という辞世の句をのこしています。