いよいよ今日は、インドネシア旅行の本当の目的地に行きました。父はポンチャナック事件に巻き込まれて、終戦の年、1945年から1年間をこの地でオランダが管理する刑務所に収監され筆舌に尽くしがたい1年間を過ごしたのです。日本に帰国して私が生まれました。私が中学生の時に父は亡くなったのですが、インドネシアでの事情を一度も語ることがありませんでした。ただ、オランダ兵に蹴られた腰が時々痛くなると言っていただけでした。
ポンチャナック事件の概要ですが、日本の敗戦色が濃厚になってきた終戦末期に、巻き返しを計るオランダのゲリラと華僑が組んで、武装蜂起し一気に日本軍を壊滅させるという計画がおこりました。12月8日にある祝賀会がインドネシア婦人会と日本人、軍人により執り行われる予定でしたが、この祝賀会で毒をもり、一気に武装蜂起するという計画だったそうです。この計画が明るみに出て、現地の憲兵隊が千人近い人々を逮捕し、処刑したという事件です。ポンチャナックから90kmほど離れた田舎町マドール地方で、その悲劇がおこりました。そのために現地ではマンドール事件というのです。その処刑をされた場所がそのまま墓地になっています。その墓地に、日本軍が現地の人々を処刑をするレリーフが記念碑として建っていました。そこにお参りをするというのが今回の旅の目的でした。
そのレリーフの中央に建っている碑の石版に写真の文字が書かれていました。「思い出にするだけではなく、あなたの闘争精神をすべての植民地支配への闘いに貫いて欲しい」と書かれているそうです。終戦後オランダ軍がポンティアナックに戻って来ましたが、この事件を戦犯として裁判を始めました。日本に帰っていた軍の関係者も連れ戻され、終戦で帰国しようとしていた民間人も軍人も連れ戻され裁判が始まりました。戦後のどさくさのいい加減な裁判だったようで、現地の人を集めて、この日本人は悪い人か、いい人かと尋ね、悪いと言われるとみな刑務所送りだったようです。オランダがインドネシア植民地統治を続けるために利用されたような裁判でした。その後日本軍の責任者数十名が銃殺刑に、父は1年間の禁固刑に服しました。多分マレー語の出来る父は、日本軍に尋問の通訳をさせられていたのではと想像しています。現地へ赴任した父は、現地の酋長や要人との親交も深く信頼関係を築いていたようです。そのことが逆に仇になったのかも知れません。
これで、死ぬまでに一度ポンティアナックを見てきたいという願いが叶いました。ポンティアナックからジャカルタ経由で成田にもどりました。父の冥福を祈りつつ。